―――思いついたらまっしぐら、行動派社長が雪と闘うことに。

   「人生のすべてをかけよう」と決心―――

 あの豪雪が人生を変えた

屋根融雪装置開発のそもそものきっかけは、何といっても今から27年前の昭和56年のいわゆる「56豪雪」が原点です。

昭和56年1月4日未明から降り出した雪は、1月~2月にかけて殆ど休むことなく降り続け、ついに7週間一回の晴れ間もなく十日町は4メートル前後の積雪となったのです。国道117号線も不通となり、当時国鉄の飯山線は2ヶ月間も全線不通となりました。市内はいたるところが孤立状態で、豪雪で初めて国の激甚災害法が適用になりました。積雪が災害と認められたという記念すべき出来事です。道路の消雪パイプは軒並み井戸水の汲み上げ過ぎで役に立たなくなり、全国各地から建設用の重機が動員され、排雪のため町中大騒ぎとなっていました。市民の生命線である幹線道路ですらその状況でしたし、それ以上に、いたる所で連日雪掘りに追われて、その年6~7回の雪下ろしは当たり前で、中には「15回も掘った」という人も居たぐらいでした。

その頃の私は、念願果たして水道工事店を独立開業して2年目を迎える冬でした。結婚して丸3年、長女、次女が年子で生まれて仕事も家庭もそれこそ目が回るくらい大忙しの頃でした。住まいは会社近くの築35年の一軒家を拝み倒して安く借りていましたが、問題はその借家の雪下ろしです。普通であればそんなに大きくもない一軒家ですので32歳の男であれば苦もなく雪堀ができそうですが、私の場合は小さい時の足の病気(左大たい骨骨髄炎)で下肢障害5級となっていましたから普通の人が難無くできる作業でも、2~3倍は手間がかかり、おまけに急勾配の夜間作業は相当な危険と戦わなければならないつらい作業なのです。夜、仕事が終わってから夕食もそこそこに連日、昨日は北側屋根、今日は南側屋根、明日は車庫の屋根と3日がかりで終えたと思ったらまた最初掘った屋根から一回りしなければ・・・と、吹雪の中死ぬほどの思いを経験したのです。「そんなに大変だったら、人に頼んでも・・・」と言われそうですが、町中に雪堀手もなく、また豪雪で高騰した人手を頼む余裕も、事業を始めたばかりの我が家にはありませんでした。「若い時は何とか自分で屋根にも上がることができるが、年をとってからどうなるんだろう」などと不安な気持ちの毎日でした。

屋根融雪を自力製作・・・

そんな辛い経験があって、屋根の雪堀をどうにかしたいという強い思いがふつふつとしているとき、ある新聞の記事が目に留まったのです。それは「電気ヒーターを使った融雪技術」とあったのです。実は私は、地元の県立高校を出て憧れの東京に行って電気店に勤めながら電気専門学校の夜間部を卒業していたのです。その後、将来は電気技術者として働きたいと、24歳まで電気店に住み込みで修行をしていましたので、その記事を見て「ピピーッ」ときたんです。「電気ヒーターで出来るなら、今現職の配管工事でやっている床暖房の技術を応用すればもっと安くいい物ができる筈だ」と。その時はまさに「天の啓示を頂いた」かの様に頭は全開、すぐに実行で自動的に身体が動いてしまう性格が自分でもおかしいくらいでした。当時、会社のプレハブの資材倉庫が豪雪の為屋根が変形して雨漏りがしていましたのでこの修理も兼ねて、屋根融雪試験施工第1号を取り掛かったのが56豪雪明けの昭和56年7月、かんかん照りの中、プレハブの屋根のトタンの熱さを手がまだ覚えています。

記念すべき第1号に感激の涙

あれから27年、おかげさまで今では3,000棟を超える工事をさせて頂いてきましたが当時は必ずしも順調に進んだ訳ではなかったのです。

今でこそ、毎年200棟を越える工事をさせていただいておりますが、当時はせっかく苦労して開発した屋根融雪装置でしたが飛びつくお客は全くいなかったのです。「実際融けるのか」「維持費はいくらかかるのか」「データーがないのでは話にならない」。確かにお客様のいうことももっともな話で、実績もないものに200万も300万もする融雪装置を買ってくれる人はいなくて当たり前と思いました。なぜならそのときは開発した自分ですら「自信を持っておすすめできる」とはとてもいえなかったのです。

それでも捨てる神あれば拾う神ありです。私の苦境を知った知人のSさんが「試験施工で安くできるなら試しにやってもいいよ」と言ってくれ「記念すべき第1号」がその年の初雪も間近な11月に行われたのです。工事も無事完成して12月に初雪を迎え、見事に雪が融ける様子を確認できたこの夜、勇気あるSさんと感激の涙とともに浴びるほど飲んだのはいうまでもありません。

順調の果てに、苦悩の大決断・・・

翌年、5件の注文をいただきそのときに「この屋根融雪装置はオリジナル商品として育ててゆこう」そのために商品名をつけて売っていこうと、当時としては工事自体に商品名をつけて売るなどとの発想はしなかったのですが、新潟の融雪メーカーとして名乗りを上げたいとの思いで「北越融雪システム」と命名しました。そのときは、まさか18年後に北越上下水道株式会社と言う社名を北越融雪株式会社に変えるようになるとは思いも寄らなかったのです。

屋根融雪が本格的に普及期を迎えたのは56豪雪から10年後くらいだと思います。新潟県が屋根融雪に補助金を出すようになってからです。屋根融雪が屋根雪処理の決定版と行政からも認識され始めていたのです。当社もその時流に乗る形で施工件数もどんどん伸びていきその間、高性能融雪パネルの開発や降雪比例制御センサー、など技術的にも進み、本業の水道工事に匹敵する事業に育ってきたとき、ある思いが頭をよぎるようになってきたのです。それは水道事業と融雪事業の二つの事業をこのまま一緒にしてやるべきか。分離して別々の会社にしてやるべきか、ということです。なぜなら、水道事業は下請け構造プラス公共事業で技術開発や営業はほとんどしなくてもやれる。融雪事業は技術開発や一般ユーザーへの営業力提案力が欠かせない事業。同じ配管をする仕事でも事業の仕掛けは似て非なるものです。そこで普通ならここで子会社を作って融雪部門を分離して両方伸ばす選択があったと思うのですが、私はその選択をしませんでした。そして、屋根融雪の受注が250棟を越えた8年前の平成11年10月突然十日町市と新潟県に水道設備工事の公共事業辞退を申し入れたのです。この「暴挙」に対し社員には理解されず、社内発表の日に女子社員から泣かれたのには正直参りました。もちろん同業他社からも馬鹿にされ、あきれられたことはいうまでもありませんが、その後水道事業の廃業、社名変更と矢継ぎ早にとられた決断、実行は当時「気でも狂ったか」といわれ、誰からも奇行と映ったようです。なぜなら、年商の3割、数億円もの売り上げをミスミス自ら捨てるほどの馬鹿げたことをやってしまったからです。

日本一の屋根融雪メーカー?になる・・・

なぜ当時、安定した公共工事や水道事業を辞めたのか。自分でも夜も眠れなくなる位考えに考えた末に出した「人生の大決断」であったと思います。それは水道工事では日本一になれないという確信があり、全国36,000社以上あるといわれる管工事業者の「誰も知らない1社」にはなりたくないと思ったし、一方、屋根融雪事業では「もしかして日本一になれるかもしれない」と思えたからなんです。どうせ短い一生、どんなことでも「日本一」になれるならそれに賭けてみたい。その一念がそうさせたのです。日本一とは規模でなく中身です。「大きな会社にはなれないかも知れないが屋根融雪でなんとしても日本一、いや世界一の会社になるんだ」と当時一人心に誓った事を昨日のように覚えています。

当社の経営理念は「地域密着事業を通じて、地域に愛され、お客様から信頼され、それを喜びと感じられる社員を育てる企業にする」とあります。地域最大の課題は雪であると思います。豪雪の繰り返されるこの地にあって、強く必要とされ、直接貢献ができる屋根融雪事業は私にとってまさに「我が人生のすべてをかけても惜しくない」ほどの価値ある選択であったと思います。

まだまだ、課題に尽きることはありません。地球規模の温暖化問題や原油高の今、ハイブリッド化などの技術革新を進めなければならない時代が目前に来ています。これからも「冬のくらし安心」を支援する企業として、雪国に強く必要とされる会社にしてゆきたいと考えています。

北越融雪株式会社 代表取締役 樋口 功

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